以前、灰野敬二さんのインタビューを拝見して以来、折にふれてこの言葉が思い出される瞬間が多々ある。
そのインタビューで、灰野さんはプロの話し方として、イメージで語るのではなく、実務的な方法論で話すという作法で語られていた。事象の全ては理由を持ち、全てにスタートがあり、ゴールがある感じだ。イメージで終えることが許されそうなその仕事の、自分の思想を他者に共有させるための言葉として、たくさんのものがそぎ落とされた骨みたいな言葉として、どういう気持ちで一音一音を鳴らしているかという問いかけに対してその言葉は発言された。
ここではないどこかへ行きたいという気持ちをもって一音一音を弾いている。観客はここではないどこかへ行きたいと思って自分を見にきているから、それに応えるために自分はみんなのいるところとは違う極地にいようとしてる、そんなようなことを言っていた。要は、イってる人を見たいというお客さんに答えているということだ。
この言葉はすでに自分の中で何度も反芻されて、自分の中で初期よりより肉付けされて自分の中で生きている。
ここではないどこかへ行きたい気持ち、とはみんなが持っている衝動。ずっとデスクに座って働いているとどこか違う国に旅行に行きたいし、愛する子供を寝かしつけた瞬間に別の人生があったかもと思いにふけることなど。
人はいつも自分の人生を2つ選べない。何かに時間をとられると、なにかができない。気持ちいいだけでもそれすら平凡になって、一見幸せでも、もっと胸が締め付けられるような出来事を夢見る。女の楽しさを知りながら、男性性に憧れている。このここではないどこかへ行きたい気持ちは一向におさまらない。叶わなければ叶わないほど、まとわりつく。
その衝動を緩和する方法として、3つくらいの心のふるさとをつくることは一つの方法だと思う。これは社会学者の受け売りだけど(宮台さんだったか)、1年のうち数ヶ月は住む場所を変えたり、いくつかの信頼できるコミュニティを持ったりして、ここではないところにいる自分を体現できれば、平凡に陥って消沈することもない。
それはときに人に言いづらいことかもしれないけど、自分の平凡から真逆の状況は自分を満たしてくれるに違いない。特に日本は法令遵守、善人であることを重要視する国民性なので、透明性のある人でい続けるためにその人の裏はひたすら隠され続ける。けれどそれが確実にあるはずだけど見えない状況は、その人をよりエレガントに見せる気がするんだ。ここではないどこかに行けている人は、人が決めた道徳を軽々と超えて魅力的に映る。